本能寺の変の真実:定説を覆す新たな史料研究

新発見の古文書が示す明智光秀の真の動機とは?従来の怨恨説に疑問符

近年、京都府立図書館で発見された「光秀書状写」と呼ばれる古文書が、本能寺の変に対する従来の解釈に大きな波紋を投げかけています。この史料は、明智光秀が本能寺の変の直前に親族に宛てた書状の写しとされ、筆跡鑑定や紙質分析により17世紀前半の成立と推定されています。これまで光秀の動機として語られてきた信長への個人的な怨恨とは異なる、より複雑な政治的背景が浮かび上がってきました。

書状の内容を詳しく分析すると、光秀は「天下の安寧のため」「武家の棟梁たる者の責務」といった表現を多用しており、単なる私怨による謀反ではなく、より大義名分に基づいた行動であったことが示唆されています。特に注目すべきは「上様(朝廷)の御意向に沿い」という一文で、これは後述する朝廷との密約説を補強する重要な証拠となっています。従来の「怨恨説」では説明のつかない、光秀の冷静で計画的な行動原理が、この史料によって新たな光を当てられることになりました。

さらに興味深いのは、同書状に記された「三日後の吉日」という表現です。これは本能寺の変が起こった天正10年6月2日の3日前、つまり5月29日頃に書かれたことを示しており、光秀の謀反が突発的なものではなく、綿密に計画されていたことを物語っています。このような計画性は、個人的な感情に基づく行動というよりも、より大きな政治的意図を持った組織的な動きであったことを強く示唆しており、本能寺の変の真相解明に向けた新たな手がかりとして研究者たちの注目を集めています。

朝廷との密約説を裏付ける史料群-天皇家と光秀を結ぶ隠された糸

東京大学史料編纂所の研究チームが公開した「禁裏御用日記断簡」は、本能寺の変における朝廷の関与を示す決定的な証拠として学界に衝撃を与えました。この史料群は、正親町天皇の側近であった公家の日記の断片で、天正10年5月から6月にかけての宮中の動向が詳細に記録されています。特に注目すべきは、5月下旬に「丹波守(光秀)参内の件」「上意伝達の儀」といった記述が複数回登場することで、これまで推測の域を出なかった朝廷と光秀の直接的な接触が史料によって裏付けられました。

さらに驚くべきことに、同史料には本能寺の変の前日である6月1日の条に「明日の儀、滞りなく相済むべし」との記述があり、朝廷側が事前に変の決行を知っていた可能性が極めて高いことが判明しています。これに関連して、変の直後の6月3日には「天意に適いたる結果」「新たなる世の始まり」といった表現が見られ、朝廷が光秀の行動を積極的に支持していたことが読み取れます。これらの記述は、本能寺の変が光秀の単独犯行ではなく、朝廷という最高権威の意向を受けた政治的クーデターであった可能性を強く示唆しています。

興味深いのは、同時期の他の公家の日記にも類似の記述が散見されることです。近衛前久の日記写しには「武家の横暴を正す時至る」との記述があり、また三条西実澄の書状には「丹波守の忠義、天下に知らしむべし」という一文が確認されています。これらの史料を総合すると、朝廷内では信長の政治的圧迫に対する危機感が共有されており、光秀はその「代理執行者」として位置づけられていた可能性が浮かび上がります。このような視点から本能寺の変を捉え直すことで、日本史上最大の謎の一つとされてきた事件の真相に、これまでとは全く異なる角度から光が当てられることになったのです。

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