豊臣秀吉を見出した信長の人材登用術

身分を問わない実力主義で、農民出身の秀吉を重用した信長の革新的な組織運営

戦国時代において、武士の家柄や血筋が重視される中で、織田信長は全く異なるアプローチを取っていました。当時の常識では考えられないほど柔軟な人材登用を行い、出自よりも能力を重視する姿勢を貫いたのです。この革新的な考え方こそが、後に天下人となる豊臣秀吉という逸材を見出すことにつながりました。

信長が秀吉を初めて召し抱えたのは、秀吉がまだ木下藤吉郎と名乗っていた頃のことです。農民の子として生まれ、正式な武士の教育を受けていない秀吉でしたが、信長はその機敏さと独特の発想力に注目しました。草履取りという身分の低い雑用係から始まった秀吉でしたが、信長は彼の持つ潜在能力を早い段階で見抜いていたのです。

従来の戦国大名であれば、家臣団の中核は代々仕える譜代の家臣や、名のある武家出身者で固めるのが一般的でした。しかし信長は、組織の活性化と革新のために、あえて既存の枠組みにとらわれない人材を積極的に登用しました。この柔軟性こそが、織田家を他の戦国大名とは一線を画す強力な組織へと押し上げた原動力だったのです。

戦場での機転と忠誠心を評価し、秀吉を段階的に昇進させた信長独特の人材育成法

信長の人材育成の特徴は、実戦を通じて部下の能力を見極め、成果に応じて段階的に責任を与えていく点にありました。秀吉の場合も例外ではなく、小さな任務から始めて徐々により重要な役割を任されるようになりました。特に印象的なのは、墨俣一夜城の築城という難題を秀吉に託したことです。この時、秀吉は持ち前の機転と人脈を活かして見事に任務を完遂し、信長の期待に応えました。

戦場においても、秀吉は信長の期待を裏切ることがありませんでした。金ヶ崎の退き口では、信長の撤退を支援する殿軍を務め、その忠誠心と戦術眼を如何なく発揮しました。また、浅井・朝倉攻めでは独立した部隊を率いる武将として活躍し、信長から「猿」という愛称で呼ばれながらも、確実に信頼を勝ち得ていきました。

信長は秀吉の成長に合わせて、領地の統治という文民的な業務も段階的に任せるようになりました。近江長浜の城主に任命された際には、秀吉は軍事的な手腕だけでなく、領民への善政や商業の振興など、総合的な統治能力を発揮しました。このように信長は、武功だけでなく政治的手腕も含めて部下を評価し、多面的な能力開発を促していたのです。信長のこうした育成方針があったからこそ、秀吉は後に天下統一を成し遂げるだけの器量を身につけることができたのでしょう。

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