武田信玄との因縁:甲斐の虎に挑んだ尾張の風雲児

三方ヶ原の戦いで見せた若き信長の野心と、甲斐の名将との激しい攻防戦

元亀3年(1572年)、織田信長と武田信玄の因縁は遂に頂点に達した。信玄が2万5千の大軍を率いて甲斐を発し、遠江・三河への侵攻を開始したのである。この時、信長は石山本願寺や浅井・朝倉氏との戦いに忙殺されており、西と東の両面から挟み撃ちにされる絶体絶命の状況に追い込まれていた。信玄の狙いは明確だった。信長包囲網の一翼を担い、急速に力をつける尾張の風雲児を叩き潰すことである。

三方ヶ原の戦いは、信長の盟友である徳川家康が武田軍と激突した戦いとして有名だが、実はこの戦いの背後には信長の深謀遠慮があった。信長は直接出陣こそしなかったものの、家康への援軍として佐久間信盛や平手汎秀らの精鋭部隊を派遣し、武田軍の動向を注意深く監視していた。しかし、信玄の戦術は老獪そのものだった。鶴翼の陣形で徳川・織田連合軍を包み込み、圧倒的な戦力差で勝利を収めたのである。

この敗戦は信長にとって大きな衝撃だった。それまで破竹の勢いで勢力を拡大してきた信長が、初めて真の強敵と対峙した瞬間でもあった。家康は命からがら浜松城に逃げ帰り、織田軍も多くの犠牲を払った。しかし、この敗北は信長に貴重な教訓を与えることになる。武田信玄という「甲斐の虎」の恐ろしさを身をもって知った信長は、以後の戦略をより慎重かつ大胆に練り直すことになったのである。

上洛を巡る東西の覇者同士の駆け引きと、運命を分けた信玄の突然の死

三方ヶ原での勝利に勢いづいた武田信玄は、いよいよ上洛への野心を露わにした。信玄の計画は壮大だった。東海道を西進し、織田領を突破して京都に向かい、足利義昭を奉じて天下の実権を握るというものである。この時期、信長は四方八方から敵に囲まれており、まさに風前の灯火の状態だった。信玄にとってこれ以上ない好機であり、天下統一への千載一遇のチャンスでもあった。

しかし、歴史の歯車は思わぬ方向に回り始める。元亀4年(1573年)4月、武田信玄が野田城攻略中に病に倒れ、53歳の生涯を閉じたのである。この突然の死は、日本史の流れを大きく変える出来事となった。もし信玄があと数年長生きしていたら、織田信長の天下統一はなかったかもしれない。それほどまでに信玄の存在は、信長にとって大きな脅威だったのである。信玄の死により、武田軍は甲斐への撤退を余儀なくされ、信長包囲網は一気に綻びを見せ始めた。

信玄の死を知った信長の心境は複雑だったに違いない。最大の政敵を失った安堵感と、真の武将との戦いを望んでいた武人としての寂寥感が入り混じっていたことだろう。信長はその後、武田氏との関係を一変させる。信玄の跡を継いだ武田勝頼に対しては、より積極的な攻勢に転じ、最終的には天目山の戦いで武田氏を滅亡に追い込むことになる。甲斐の虎・武田信玄との因縁は、信長の天下統一への道程において重要な転換点となったのである。

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